HISTORY
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昔、東比奈諏訪(すわ)神社のお日待(ひまち)では、相撲大会や素人演芸などを行って、祭を盛り上げていました。しかし 「この神社独自の魅力あるものをつくりたい」と願う氏子有志により、昭和51年、五穀豊穣、国家安泰、家内安全の祈りを込めて、信州の諏訪大社に伝わる龍神伝説と素盞嗚尊(すさのおのみこと)の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の神話に基づいた龍の舞を行うことに決めました。 龍の舞は、島根県に伝わる民俗芸能の神楽で演じられている大蛇(おろち)の動きを参考にしました。氏子有志が島根県まで習いに行き、それをもとに独自の動きを加えた『東比奈諏訪神社大龍の舞』が完成しました。 この舞は、巨大な龍と素盞嗚尊が繰り広げる勇壮果敢な物語で、「胴見せ」「姫さらい」「大龍退治」の三幕で構成されています。それぞれの幕に見せ場を持ち、見る人をひととき神話の世界へと引き込んでしまう、見事な立ち回りとなっています。 大龍の舞は、お日待や姫名(ひめな)の里まつりなど、地元のイベントを中心に参加し、その勇姿を披露しています。
東比奈諏訪神社大龍の舞保存会は、昭和56年に発足しました
日本書紀=巻一第七話 八岐大蛇(要約)
高天原(たかまがはら)を追放された素戔鳴尊(すさのおのみこと)〔須佐之男命〕は、出雲の国の簸の川(ひのかわ)の辺に来た。その時、川のそばですすり泣く声が聞こえるので声のする方に行ってみると翁(おきな)と媼(おうな)が真ん中に一人の少女を抱いて泣いていた。「お前達、何をそんなに悲しんでいるのだ?」と素戔鳴尊が問うと、翁は 「私はこの地に住む脚摩乳(あしなづち)という者です。これは、妻の手摩乳(てなづち)、そしてこの童女は、私どもの娘で奇稲田姫(くしいなだひめ)といいます、私たち夫婦には八人の娘がいましたが毎年、八岐大蛇(やまたのおろち)という怪物がやってきて娘達を次々に呑んでしまいました。今年もその八岐大蛇がやってくる頃になりました。私達にはどうしようもありません。それで悲しんでいるのです。」と翁と媼は答えた。哀れに思った素戔鳴尊は、二人に「私が八岐大蛇を退治してやろう。ただし条件がある、その娘を私の嫁に呉れんか。」と言った。 翁は「八岐大蛇を退治して下さるなら、よろこんで奇稲田姫をさしあげます。」というと、素戔鳴尊は続けて言った。「では、強い酒を用意してくれ。」素戔鳴尊は棚を八面に区切り、それぞれに翁達に用意させた酒の入った樽を置いて大蛇を待った。奇稲田姫は見つからないように爪櫛(つまぐし)に変えて自らの髪に挿した。
しばらく待っていると、八岐大蛇が現れた。頭と尾が八つあって、眼は酸漿(ほおずき)の様に真っ赤にで、背中には松や柏が生えていて、八つの山八つの谷に広がっていた。八岐大蛇は、酒を見つけると八つの樽にそれぞれの頭を入れて飲んだ。大蛇は酒を飲みほすと酔って眠ってしまった。この時を待っていた素戔鳴尊は、腰に下げていた十握の剣(とつかのつるぎ)で八岐大蛇を切り刻んだ。その際、尾を斬るときに剣の先が少し欠けた。そこでその尾を割いてみると、中から一つの剣が出て来た。これが天の村雲の剣、後に草薙の剣(くさなぎのつるぎ)といわれる物である。
素戔鳴尊は「なんとすばらしい剣だ。これは私のような者が持つ物ではない。」と、その剣を、天つ神(あまつかみ)に献上した。
その後、素戔鳴尊は奇稲田姫と結婚するのに良い土地をさがして、出雲の須賀(すが)に来たときに言った。「この土地はなんとすばらしい地だ。私の心がこんなに清々(すがすが)しい」と、この地で結婚することに決め、そこに宮を建て、素戔鳴尊と奇稲田姫は夫婦の交わりをした。身籠もった奇稲田姫は大己貴神(おおあなむちのかみ)〔大国主〕を産んだ。